津軽の深層神話を甦らせる〈語部の記憶〉!
東日流外三郡誌と語部
佐々木孝二=著 四六判 上製
定価2,330円+税(2563円)
『東日流外三郡誌』は「偽書」なのか?本書は従来の真書/偽書論争を越えて、説話文学としての『外三郡誌』を再評価する先駆的論考である。弘前大学で説話研究を重ねた著者が、「確証を持たぬ時代史は伝承の世界に生きるほかない」としつつも、「無価値と切り捨てるには惜しい拾い物」と指摘した慧眼は、今なお鋭い示唆を放つ。語邑に生きた語部たちの記憶、荒吐神と安東氏の物語構造、そして津軽の歴史意識の深層に迫る本書は、単なる史料批判を超えて、伝承論・思想史・地域民俗学の交点に立つ新たな視座を提示する。『東日流外三郡誌』の再定位に挑む者にとって必読の一冊。
『東日流外三郡誌』は、いわゆる「和田家文書」の中核的資料として、真贋論争の的となってきた。しかし、そのような枠にとらわれず、物語性・伝承性に着目してこの書を読み解こうとする試みがかつてあった。弘前大学で説話文学を研究していた佐々木孝二による『東日流外三郡誌と語部』(一九九〇年)は、その先駆的成果である。
佐々木は、『外三郡誌』をあくまで「説話集」として位置づけたうえで、「確証をもたぬ時代史はやはり伝承の世界に生きる以外に道はなさそうだ」と述べる。
その上で「説話、伝承の研究者が、これを無価値なものとして放棄してしまっては、やはり大きな落とし物をしたような悔いが残るだろう。これは意外に大きな拾い物かもしれないのである」と指摘し、「ひとまず『東日流外三郡誌』の主張を額面どおり受け止めるところから出発」すべきであるとした。つまり真偽論をいったん括弧に入れたうえで、『外三郡誌』の構造と文脈を徹底的に掘り下げる「内在的理解」を進めるべきだとしたのである。
本書の核心は、『外三郡誌』の背後に見え隠れする語部たちの存在と、その語りの世界を掘り起こすことにある。佐々木の見立てでは、『外三郡誌』は安東氏による津軽支配の正統性を主張する政治的意図のもと、古代神話的要素――とくに荒吐神、安日彦、長髄彦らを始祖とする系譜――を土俗信仰から導入し、安東氏と荒吐族を結びつける壮大な神話装置として編まれた。その主張をまずは額面どおり受け止めて、その構造を抽出すること、それこそが「内在的理解」なのだ。
注目されるのは、『外三郡誌』における、語部たちの伝承である。語部は江流末の語邑に集住しその長は帯川氏であり、、「帯川佐吉」「帯川兵佑」など帯川姓の者が多い。語邑は現在の稲垣村の「語利」に比定されるが、この村に帯川氏が居住していた形跡はない。しかし、帯川姓は長野についで青森県に集中していることは、そこに何らかのミッシングリンクが存在すると推定される。
語部の語りは主として荒吐神にまつわる神事や祭文が中心で、『外三郡誌』の文脈では近世のイタコ、ゴミソ、オシラが古代の荒吐神信仰を継承するものとされることから、『外三郡誌』に登場する語部とは、実際には土俗シャーマン的存在であった可能性が高い。
さらに注目すべきは、『外三郡誌』において語邑の語部が語る伝承は、すべて古代に関するものであり、中世に関する語りは不自然なほど欠如している点である。もし『外三郡誌』における語部の設定が後付けで行われたのであれば、そこに中世の伝承が混ざっていて当然であるはずだが、それがないこと自体が、『外三郡誌』が和田喜八郎による偽作ではありえない有力な反証となりえるだろう。
佐々木はまた、『外三郡誌』における中世篇――合戦記や氏族興亡の物語――には、瞽女、座頭、祭文語りの存在を想定しており、「語邑の語部」という狭義の語部のほか、遊行する語りの専業者たちを「広義の語部」として捉えていた節がある。つまり、静的に定住した語り手だけでなく、動的に各地をめぐり物語を伝えた人々の記憶も『外三郡誌』に流れ込んでいるのだ。
そのように見ると、『外三郡誌』はまさに語部文書としての性格を帯びており、そこに記された語りは、中世の縁起や古代の神話を媒介しながら、津軽の民間信仰と歴史意識をかたちづくっていったのである。説話、伝承、神話、史実が渾然一体となったこの資料を、「偽書」と一刀両断するのではなく、内在的に理解し、再編成された津軽の記憶の体系として捉えなおすことが、いまこそ求められている。
『東日流外三郡誌と語部』は、こうした視座の先駆けとして、忘れ去られてはならない一冊である。伝承と語りの可能性を深く掘り下げる本書は、和田家文書研究における「もうひとつの入口」として、多くの示唆を与えてくれるだろう。(八幡書店社主 武田崇元)